名刀の系譜、土性の矜恃。

希有の切れ味に秘められた経と緯──正史「哲弘」

桐生工業の祖父桐生哲男の写真

(右)祖父の桐生哲男(左)祖父が指導した鍛冶職人

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正史「哲弘」

The History of Tetsuhiro


黎明

 

人々が大地に根ざし、農耕と狩猟を生業としていた集落には、野鍛冶(のかじ)と呼ばれる村の鍛冶屋がいて、日々、静穏ながらも旺盛な生産活動に適合した刃物や鉄道具を鍛造していました。

 

それらの道具は使い手の声に耳を傾け細かな注文に応じ、その土地の気候や生活様式に寄り添って造られた“お誂え”、綿々と繰り返される生産労働に溶け込んでいきました。野鍛冶は地域文化と経済を鍛える職能だったのです。

 

「哲弘」も江戸末期からの野鍛冶の系譜をうけて、累代桐生哲男が昭和初年に興した桐生製作所のブランドとして掲げられました。丁寧に造られる「哲弘」の小刀や包丁、鉈などの刃物はその卓越した品質が広く知られるところとなり、弟子職人を多く抱え、一定の量産力を持った高級ブランドに成長していきました。

 

やがて国内は挙国一致の戦時体制のもと大戦へと突入していきますが、「哲弘」をはじめ、金物の町として栄えていた三条地域全体が軍需中心の産業構造に組み込まれました。刀鍛冶の系譜を有する「哲弘」も軍刀や銃剣など高度な軍の求めに応じて生産をしました。


飛翔

 

野鍛冶の多くは地元で掘られた磁鉄鉱などを原料に生産を始めましたが、戦後欧米からステンレス鋼が入ってくる頃から人々の生活様式や食習慣も一変し、このステンレスを素材とする都市の暮らしにマッチした“洋包丁”が需要の主流となり、それまでの和包丁は使われなくなりました。

 

確かに、ステンレス包丁は錆もなく面倒な手入れも不要でしたが、特に切れ味の面では和包丁に比べて劣っていたため、厨房の職人たちには受け入れられませんでした。

 

好奇心旺盛で研究熱心だっただった当主桐生哲男は、このステンレス包丁に和包丁の切れ味を与えようと、試行錯誤を重ね、鋼をステンレスで挟む技術を開発し、実用新案を取得して、和包丁の切れ味を持ったメンテナンスフリーのステンレス包丁を製品化し、圧倒的な支持を得て量産化に踏み切りました。ここにも、人々の暮らしに寄り添う野鍛冶の血統が脈打っていました。桐生製作所がそれまでの旧態依然とした生産工具や工程を刷新し、近代的なファクトリーに生まれ変わったのもこのときです。



革新

 

桐生製作所(昭和40年に桐生工業株式会社設立)二代目の桐生勝義は、特に海外で高評価を博したこのステンレス包丁を輸出、生産ラインのほとんどを海外向け製品の生産に充てました。

 

その量産化のラインでネックになっていたのはステンレスの熱処理の問題でした。鉄製ハガネの焼き入れは800度程度ですが、ステンレス鋼は1050度まで温度を上げなければなりません。ところが1050度まで温度を上げると厚い酸化被膜が形成されその後の加工がうまくいきません。しかし、初代譲りの進取の気質と高度技術を持った桐生勝義は、試行錯誤を繰り返し、技術面を問題視する築炉メーカーの反対意見に従わず、鋼材一本一本をコンベアのフックに引っかけて炉の中を通る無限軌道構造の自動炉を考案し作らせます。結果的にはこの型破りな炉から、厚い酸化被膜が形成されることのない優れた品質のステンレス包丁が生み出されることになりました。

 

現在も新潟産地のステンレス庖丁はこの方式の加熱炉が主流です。


回帰

 

こうして積み上げられてきた高度な技術を活かして、桐生工業株式会社は世代交代を進め、ふたたび野鍛冶の信条に添い、より高い品質と切れ味の真価を求める声を聴きながら「哲弘」の銘に恥じない製品づくりを展開しています。海外には真似のできない、そして国内でも類をみない叡智の歴史と卓越の技は、多様化するライフスタイルの渦の中でも根強い支持を得て息づいています。

 

一見素朴で地味な“成り立ち”でも、そこには今も絶えない野鍛冶のエナジーと手に馴染む意匠が息吹き、求める人々に普遍の価値を呈することができると私たちは考えます。

 




桐生工業株式会社 

本社:新潟県三条市林町1丁目9番25号

工場:新潟県三条市鹿峠1439-1

TEL: 0256-46-5011(代)

FAX: 0256-46-4953

URL: https://www.tetsuhiro-knife.com

E-mail : kiryu@soho-net.ne.jp